山谷が奉じる「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義」という世界観の神学的妥当性について考察するブログです。

義認と法

カール・バルトは、新約聖書に見る「キリストのしもべ・であり・かつ・悪鬼的し得る・国家権力」という概念について、ナチスに対する「告白教会」の戦いの中で行った講演「義認と法」において、次のように述べています。(カール・バルト「義認と法」『カール・バルト著作集6』 pp.204-209.)

近年になって初めて、『ローマ3:1及びテトス3:1でパウロが用い、またルカ福音書12:1においてもたまたま政治上の上司を現すために用いられている「権威」(エクスーシア)という言葉は、その他の場合にも新約聖書で複数形で現われるときには(あるいは、「すべての」(パサ)という言葉と共に単数形で現われるときには)いつも、聖書の世界像及び人間像の著しい特徴をなしている「天使的力の群れ」を意味している』という、昔から明白であった事情に、再び強い注意がむけられるようになった。この「権威」(エクスーシア)という言葉は、「支配」(アルカイ)、「支配者たち」(アルコンテス)、「権力」(デュナミス)、「王座」(スロノイ)、「権勢」(キュリステーテス)、「御使」(アンゲロイ)等々の言葉と同様のものであって、これらすべての言葉と概念の上から区別することは、恐らく困難であろう。(恐らくは、それは、それらの言葉と共に、「御使」という類概念にまとめられうるであろう。)すなわち、「権威」(エクスーシアイ)とは、造られた力でありながら、しかも不可見的・霊的・天的な力であって、他の被造物の中にありつつ、またその上にありつつ、或る独立性を持ち、このような独立性を持つことによって、また同時に或る卓越した価値・課題・機能を持ち、或る現実的な影響を及ぼすものである。ギュンター・デーンによってなされた指摘は、『新約聖書に述べられた教団が、国家・カイザル或いは王・国家の代表者たち・その働きのことを考えた場合、教団は、この国家において代表されそこに働いている天使的力の像を、眼前にしていたのである』という、すでに用語の上から生じて来る強い蓋然性を、さらに確実なものにする。われわれは、すでに、イエスを釈放するか或いは十字架につけるかというピラトに対してゆだねられた可能性を示すものとして、単数形で用いられた権威(エクスーシア)という概念のことを語った。また、われわれは、1コリント2:8では、「支配者たち」(アルコンテス)という概念によって、明らかに国家のことを考え、それと共に、天使的力を考えなければならないのであるが、これとても同様である。『このことによって明らかに示されているのは、国家というものが、どのようにローマ13章で述べられているような神の意志と定めによって定められた法の擁護者から、黙示録13章に述べられているような竜によって力を与えられ・皇帝礼拝を要求し・聖徒を攻め・神をけがし・全世界を征服する底なき所から上がる獣にまで、成りうるかということである』と主張されているのは正しい。天使的力は、まさに荒廃し・堕落し・腐敗し、かくてデーモン(悪鬼的)力となりうるのである。・・・・・・以上のようなすべてのことが、政治的な天使的力にも適用された場合、どういう結果になるのであろうか。それは、言うまでもなく、この力が─国家そのものが、根源的・究極的にイエス・キリストに属しているということである。すなわち、国家は、その相対的な実質・価値・機能・目標設立によって、イエス・キリストの人格と御業に─したがって彼において起こった罪人の義認に、奉仕しなければならないということである。もちろん、国家は、デーモン化(悪鬼化)されうる。教団がデーモン化した国家を相手にするということが、いつも起こりうるということ、また事実起こるということを、新約聖書は隠しはしない。この見地から見ても、明らかに国家のデーモン化(悪鬼化)ということは、人々が通常強調して言うように、不当な自主化ということであるよりも、むしろその正当な相対的な自主性が喪失されるということであり、それ本来の実質・価値・機能・目標設定を放棄するということである。そして、やがてこの放棄と共に、皇帝礼拝とか国家神話とかその他のものが、結果的な現象として起こって来るのである。・・・・・・国家が教会に対して真実な正しい自由を与え、『わたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごす』(1テモテ2:2)ことによっても、国家は真理に対して『局外中立的』(ニュートラル)なその存在を事実的に証明することができる。この事実を、われわれは、新約聖書の天使論の光に照らされる場合には、否定しえないのである。


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