山谷が奉じる「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義」という世界観の神学的妥当性について考察するブログです。

パウロ神学における天使的諸力

オスカー・クルマンは、パウロ神学に見る後期ユダヤ教の天使論の影響について、その古典的名著『キリストと時』において、次のように論じています。(オスカー・クルマン、前田護郎訳『キリストと時』岩波書店、1954年、pp.194-197.)

後期ユダヤ教の天使論

天使に関する後期ユダヤ教の考え、中でも「諸民族の天使」についてのそれは、新約の確実な信仰の内容に数えいれなければならない。
ユダヤ教の中で広く流布していた、諸民族支配の天使の信仰の重要性を、はじめて指摘したのは、マルティン・ディベリウス『パウロの信仰における諸霊の世界』(1909年)の功績である。ギュンター・デーン『天使と権力 ローマ書13:1−7の理解のための一つの寄与』(カール・バルト50回誕生記念、1936年)は、この指摘を取り上げて詳細に論じた。

すべての民族が天使によって統治されるというこの後期ユダヤ教の信仰は、多くの例証を持っているが、ことにダニエル書、イエス・シラク、エノク書にそれが見られ、そしてタルムードやミドラシュにおいてもまた指摘しうる。

この信仰にもとづくならば、どうして地上の人間界の国家権力が、そのような天使の勢力の領域に属するかが理解できる。これら天使の勢力は、キリストを十字架につけた国家当局者の背後に存在したのである。これが、本章のはじめのところでふれた「アルコンテス・トーン・アイオーノス・トゥートゥー」(このアイオーンの司たち)である。同様にコリント前書6章3節も、原始キリスト教の考えによれば、これら見えざる天使の勢力が地上の国家の背後にあることを証明する。なぜならば、この仮定にもとづいてはじめて、次のことが意味をもつからである。すなわちパウロは、彼が教会にあてて、キリスト信徒の間では、国家の裁判所による裁判沙汰を避けるようにと忠告したことに対する理由として、教会に属する者たちは、世の終わりに「天使」を裁くであろうという点を指摘するのである。

エクスーシアイの釈義

いわゆる「キリスト論的に、国家を基礎づけること」は、従ってその反対者たちから通常前提されるように、ローマ書13章1節の「エクスーシアイ」(諸権威)の解釈のみに依存するものでは決してない。それは、諸民族統治の天使に関する、極めて明らかな後期ユダヤ教的な考えにもとづく。これが原始キリスト教にとりいれられ、ここで、「キリストによる天使の諸勢力の征服」に付与される意義と関連して、極めて重要な役割を果たすのである。そのゆえに、この天使及び諸勢力の観念を、パウロ神学の末端的位置に置くことは正当ではない。

かの有名なローマ書13章1節以下の箇所は、天使の勢力と見るこの考えを支持するものを持っている。この考えに基づく時に、その部分全体がはじめて真に明らかとなり、そしてパウロの思想全体と一致することが見られるであろう。

かくてその連関をみれば、国家のことがいわれていることは、完全に明らかとなる。しかしこのことは、他の二つのパウロの箇所でも見出され、また後期ユダヤ教にとっても例証の多くあるその考えが、いまの場合にも存在していることを証明するにすぎない。すなわちそれは、現実の国家権力が、天使の勢力の執行機関と考えられていることである。世俗的ギリシャ語で、単数及び複数が(アルカイ〔政治〕との組み合わせにおいても)、この世の権力だけしか表さない事実は、ローマ書13章1節以下でも、この意味だけが考慮されうることの証明のひきあいに出されてはならない。世俗的なギリシャ語の世界は、天使の勢力についての後期ユダヤ教及び新約の考えを知らない。したがってその世界にはそれに応ずる「エクスーシアイ」の語の用法もまた無縁であることは、自明の理である。パウロにとっては、その「エクスーシアイ」が他では常に天使の勢力を意味するが、ここでも彼は、それを更に厳密に、国家権力の背後にひそむ見えざる天使の諸勢力として考えている。このことは多分、彼もよく知っていた、その語をこの世の歴史に用いるまさにその用法によって示唆されたのであり、彼はそれに後期ユダヤ教的─新約的用法を結びつけた。かくしてパウロにとっては、その用語の二重の意味が現われる。この意味はいまの場合に、ぴったりと事態に即する。それはまさに国家が、見えざる諸勢力の実行的機関であるからに他ならない。


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