神学討論ブログ

山谷が奉じる「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義」という世界観の神学的妥当性について考察するブログです。

聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義とは?

1.聖書根本主義について

小生は、聖書根本主義について、次のように考えます。

聖書根本主義とは、「実在」を規定する「根源」であるところの「主イエスキリスト」が、聖書において有機的かつ十全的に証言されている、と見るような、世界観です。*

この場合、「実在」とは、主イエスキリストと、キリストのからだと、キリストが創造し保持し統治したもう世界と、これら三つを指しています。


2.宗教文化多元主義について

小生は、宗教文化多元主義について、次のように考えます。

宗教文化多元主義とは、「歴史」において多様に展開する「諸国家」「諸政府」「諸民族」「諸言語」「諸文化」「諸宗教」が、堕罪した人類に「秩序ある安寧な生活」を保障するために設置された「一般恩恵」に他ならない、と見るような、世界観です。**

この場合、「一般恩恵」とは、主イエスキリストが創造した「諸権力」が、キリストの十字架と復活によって打破され、キリストに従属させられ、キリストの王権的世界統治の代理人として使役され、キリストの再臨によって解消されるところの、「人間を救いはしないが、人間に秩序ある安寧な生活を保障する恩恵」を指しています。***

さらにまた、この場合の「歴史」とは、人類がバベル崩壊後に「諸権力」による分散管理下に置かれてから、キリスト高挙による「諸権力」の打破を経て、キリスト再臨による「諸権力」の解消にまで至る「救済史」を指しており、かつ、救済史は、キリスト初臨とキリスト再臨に挟まれた「中間の時」において、「終末論」的段階を迎えている、と捉えます。


3.聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義について

小生は、聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義について、次のように考えます。

キリスト初臨とキリスト再臨に挟まれた「中間の時」である「現在」においては、堕罪した人類に対し、宣教を通して「福音の召命」が提供されており、信仰によって「福音の召命」に応答した者は、救いの恩恵に参与して、キリストのからだに加えられるけれども、応答しない者は、「人間を救いはしないが、人間に秩序ある安寧な生活を保障する恩恵」であるところの「一般恩恵」によって、すなわち「諸国家」「諸政府」「諸民族」「諸言語」「諸文化」「諸宗教」の下にあって、適切に保持され、統治されます。そうして、保持し統治したもうのは、王の王、主の主イエスキリストに他なりません。


4.聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義の神学的典拠について

小生は、聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義について、以下に神学的典拠を求めます。
(1)聖書啓示
(2)ゲルハルト・キッテルの『新約聖書神学事典』
(3)アレクサンドリアのクレメンス
(4)カルヴァンの一般恩恵論
(5)アブラハム・カイパーの領域主権論
(6)カール・バルトの『義認と法』
(7)オスカー・クルマンの『キリストと時』
(8)ヘンドリクス・ベルコフの『キリストと諸権力』
(9)ジャン・ダニエルーの『教父に見る天使とその使命』
(10)ファン・ルーラーのセオクラシー論
(11)G.B.ケアードの『パウロ神学における支配と権威』




* この場合の「根源」とは、アルケーであるイエスキリスト。「規定」とは、存在規定としてのロゴスです。ヨハネによる福音書は、ナザレのイエスがキリストでありアルケーでありロゴスである、と証言しています。

** この場合の「歴史」(小文字の歴史)とは、第一のアダムの堕罪によって開始され、第二のアダムであるイエスキリストの初臨を経て、再臨をもって終焉せしめられる「救済史」(大文字の歴史)を下部構造に持つ、上部構造としての「生きられ・経験され・記憶され・叙述され・伝承される・無数の個々の歴史」の総体です。それは、多様であり、相対的であり、諸部分間に矛盾があり、現象として統一はされていませんが、その総体は、キリストの初臨から再臨へ向うベクトルによって、根底を規定されています。

*** この場合の「諸権力」とは、主権(エクスーシア)と統治領域(ドミニオン)と制度(クティシス)という三要素から構成されています。「主権」は、王権的頭首権的世界支配者であるイエスキリストに由来するものであり、「国家の絶対主権」と「社会の分散主権」とに分岐しています。「統治領域」は、存在を分割して、越えられない限界を定め、その中に人類を分散管理して、秩序と安寧を保障している囲いです。「制度」とは、分散管理される人類が従属する対象として直接的に関わる仕組み、組織、機構、自然法、議会法などであり、氏族共同体、職能団体、寡頭制、共和政、帝政、封建制、民主主義政体、社会主義政体、共産主義政体、自由主義政体、多国籍企業、域内共同体、国際連合など、多種多様であり、相対的であり、諸部分間に矛盾があって、現象としては統一はされていませんが、その総体は、キリストの初臨から再臨へ向うベクトルによって、根底を規定されています。


三位一体的統治の概念図

主イエスキリストの王権的頭首権的世界支配、すなわち、三位一体的統治の概念を図にしたものです。「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義」という用語でもって、山谷は下図のような世界観を考えています。



上記の図中「中間時」とは「中間の時」とも言い、主イエスキリストの初臨と再臨との間に挟まれた時であって、この時においては、旧経綸と新経綸が並存した状態にあります。すなわち、世界の第一項としての国家、世界の第二項としての社会、世界の第三項としての教会、であります。

この世界観の最も基本的な証明聖句は、以下の二つです。

「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」ペトロ後書3:22

「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」エフェソ1:20-23



ヨハネ16:7-11についての断想

聖句 ヨハネ16:7-11
しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと。義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること。また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
断想

1.「わたしが去って行く」と言われたキリスト。キリストは、もはや、世に居られない。わたしたちは、世において、キリストを見ることができない。

2.「キリスト不在」の場所。「神の不在」の場所としての「世」。

3.わたしたちは、「神の不在」という状況の只中に置かれている。「神の不在」の中を生きなければならない、わたしたち。

4.しかし、キリストは、言われた。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と。キリストの不在は、わたしたちの益となる。なぜなら、キリストの不在が、「聖霊の現在」を、わたしたちにもたらすがゆえに。

5.キリスト不在。まさにそのことがもたらす、「聖霊の現在」の場所としての「世」。

6.キリストをこの目で見ることが出来ず、この手で触れることも出来ないという、不確実性。その不確実性ゆえの、わたしたちの逡巡、とまどい、恐れ、不安、懐疑。それら、わたしたちの「弱さ」。

7.その「弱さ」と密接不可分な関係にある「信仰」。信仰は、確かさの中に根ざしているのではなく、むしろ、「弱さ」の中にこそ、根ざしている。なぜなら、目で見ることが出来、手で触れることが出来るのであれば、信じること・信じ続けることは、もはや、要請されないのであるから。

8.キリスト不在。その不確実性が引き起こす、わたしたちの「弱さ」。そうして、キリスト不在の状況が延々と続く「世」。その世の中に置かれているわたしたちは、いつも・たえず・また・つねに、「弱さ」の中に生きざるを得ない。しかし、まさにその「弱さ」のゆえにこそ生じ得る、わたしたちの「信仰」。

9.キリスト不在・にもかかわらず・キリストを信じようとする「信仰」によって、わたしたちは「聖霊の現在」を体験する。聖霊の現在のしるしとしての「愛」と「喜び」。

10.「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(ペトロ前書1:8)

11.「聖霊の現在」の中で、弱いわたしたちの目に明らかにされる、「世の誤り」。

12.聖霊が明らかにする「世の誤り」とは、何か?

13.キリストが去って行かれたいま、「世」とは、いつも・たえず・また・つねに、「キリスト不在」の場所、「神の不在」の場所である。かくて「世」は、「神の不在」を声高に吹聴し、「信仰」の無意味を説こうと試みる。

14.「キリスト不在」の場所である「世」が、キリストを信じる「信仰」を、あからさまに否定しようとすること。それこそが、聖霊が明らかにする、「世の誤り」である。

15.「世」は、「キリスト不在」の場所であるゆえに、それはまた、わたしたちが「弱さ」の中に置かれ続ける場所でもある。そして、まさにその「弱さ」ゆえに、わたしたちが「信仰」によって生きるようにされる場所でもある。「キリスト不在」の場所である「世」は、本来的に「信仰」の場所である。

16.それゆえ、キリストは言われた。世の罪とは、「彼らがわたしを信じないこと」である、と。

17.「世」は、さらに・なおも・また、「キリスト不在」の場所であり続ける。「キリスト不在」という不確実性が、まさにその「弱さ」によってこそ確実になし得るところの、「信仰」による「義認」。キリストは言われた。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」である、と。

18.なぜ、「キリスト不在」が、わたしたちの「義認」を、確実にし・かつ・保障するものとなり得るのか? 「世」は、そのことを、信じようともせず、また、見ようともしていないのに?

19.キリストは、世に来られ、世はキリストを受け入れなかった。世はキリストを拒絶し、十字架につけた。

20.まさに、世によって殺されることによって、キリストは、わたしたちの罪の贖いを成し遂げられた。わたしたちの身代わりに十字架につけられたキリストは、墓に葬られ、陰府に降下し、三日目に復活し、四十日にわたって弟子たちに顕現し、天に昇り、神の右の座に着き、栄光を受けられた。かくて、キリストは世を去り、「世」は「キリスト不在」の場所となった。

21.「世」が「キリスト不在」の場所であるということ。それは、世が、キリストを十字架につけ、そのことによって、わたしたちの贖いがなしとげられ、かくて、使命を果たし終えられたキリストが、去って行かれた、まさにその去って行かれた後の場所が、ここ、すなわち、「世」にほかならないことを、示している。(あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ)

22.「キリスト不在」の場所としての「世」は、キリストが贖いのみわざを、いま・すでに、完成されておられる場所であり、それゆえ、この「キリスト不在」の「世」にあって、「キリスト不在」ゆえの「弱さ」の中で、なおも信じようとする者たちが、まさにその「弱さ」に根ざしている「信仰」ゆえに、間違いなく・確実に・義とされる、「義認」の場所である。

23.かくて、「キリスト不在」こそが、「信仰」による「義認」を確実にし・かつ・保障する、「しるし」である。

24.「世」は「しるし」を求める。しかし、「世」には「キリスト不在」という「しるし」のみが、与えられる。

25.「世」は、まさにそこが「キリスト不在」の場所であるゆえに、「信仰」による「義認」の場所である。しかし、「世」は、そのことを知らず、また、知ろうともしない。これが、「世の誤り」である。

26.この無知ゆえに、「世」は断罪される。「世」は、キリストを知らなかった。知っていたなら、けっしてキリストを十字架につけはしなかったであろう。しかし、「世」は、キリストを十字架につけた。キリストが十字架上で絶命した瞬間、この世の支配者、すなわち「世を支配する諸霊」は、罪に定められ、武装を解除され、キリストの足下に組み伏せられた。なぜなら、「世」は、罪のないお方を罪ありとして十字架につけ、そのことによって、自らを、罪の定めの下に置くこととなったからである。

27.「世」は、キリストの十字架によって、すでに裁かれ、この世の支配者、すなわち、「世を支配する諸霊」は、断罪されている。しかし、「世」は、いまだ・なお、滅ぼされてはいない。

28.断罪されていながらも、いまだ・なお、滅ぼされてはいない「世」は、現経綸において、ひとつの使命を帯びさせられ、キリストに対して奉仕させられている。それは、キリストが去った後の「キリスト不在」の場所において、信じる誰もが、「信仰」による「義認」を確実に受ける取ることが出来るよう、「キリスト不在」の場所を、きちんと整え、管理し、維持しておく、という奉仕にほかならない。この、「世界管理者義務」としての奉仕が、いまだ・なお、滅ぼされていない「世」に対して、課せられている。(カール・バルト『義認と法』)

29.信じる者が、ただ「信仰」によってのみ受ける「義認」は、確かに、「義認に仕える者」たちの存在を・また・その奉仕を、必要としている。「キリスト不在」の場所としての「世」が、適切に維持され、管理されなければ、「キリスト不在」の場所にあっては、誰も・また・どこででも、生存し続けることは出来ないのであるから。「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」(ヘブライ1:14)

30.現経綸において、「義認」の恩恵が存続するためには、信じる者の生存だけではなく・これから信じようとする者すべての生存が、この世の支配者によって、適切に維持され、管理されなければならない。なぜなら、「義認」とは、信者が単に立場上「聖」とされるだけでなく、その実質においても「聖」とされることであるのであって、それが実現するためには、転機的聖化だけでなく、漸進的聖化もまた、必要とされるからである。転機的聖化と漸進的聖化とで構成される一連のプロセスとしての「生」は、個々人の生存が、「キリスト不在」の場所としての「世」にあって、安全かつ確実に保障されなければならないことを、要請する。

31.かくして、この世の支配者、すなわち「世を支配する諸霊」は、「キリスト不在」の場所としての「世」において、信じる者が誰でも義とされる「義認」の恩恵を確実にするために、「世」を適切に維持管理し、そのことによって、個々人の生存を保障するのでなければならない。これが、「キリスト不在」の場所、つまり、キリスト初臨とキリスト再臨の間の「中間時」にあっての、この世の支配者に課せられた「世界管理者義務」である。

32.「中間時」にあって「世界管理者義務」を忠実に遂行して、「義認」の恩恵に対して奉仕すること・それは・つまり・十字架と復活の主キリストに対して奉仕すること。これが・そして・ただこれだけが、この世の支配者、すなわち「世を支配する諸霊」の、現経綸における、唯一の存在理由となる。

33.そうして、「キリスト不在」の場所に、キリストが再び戻って来られる日、すなわち、「信仰」による「義認」へと万人を引き寄せ続けて来た神の招きが完了せしめられる日に、この世の支配者は、「世界管理者義務」から解かれ、その存在理由を終えて、かつて彼らを残らず罪に定めたもうたキリストの十字架の断罪に従って、処置を受け、滅ぼされることになる。「キリストが来られるとき・・・そのときに、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます」(コリント前書13:23-24)

34.その日、キリスト再臨の日、わたしたちは、わたしたちの内なる「聖霊の現在」が、わたしたちの外なる「キリストの現在」と完全に一致し、融合するさまを、目撃し、体験させられることとなる。「われもなく、世もなく、ただ主のみ、いませり」(ファニー・クロスビー)



主要な論敵

「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義」を奉じる小生の主要な論敵は、大略以下の三種類です。

第一、プレテリスト
第二、再建主義
第三、再臨論異端

「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義」は、「現経綸において、天上で神の右の座に着いていたもう主イエスキリストが、王権的頭首権的世界支配を、地上の宗教文化多元的状況を通して、遂行しておられる」(ペトロ後書3:22)と見る世界観です。

この世界観は、現経綸が「中間の時」すなわち、主イエスキリストの初臨と再臨に挟まれた時である、という「時間論」に立っています。

従って、この時間論と相容れない「時間認識」を持つ分派が、小生の主要な論敵、ということになります。

すなわち:

「再臨は紀元70年の聖都陥落に際してすでに起きた」とするプレテリスト。
「旧約律法の適用による宗教文化一元的状況が再臨前に達成される」とする再建主義。
「現在すでに再臨のキリストが空中または地上に到来している」とする再臨論異端。

これらが論駁対象となります。

プレテリストの誤りは、紀元70年以降に記された黙示録が「アーメン、主イエスよ、来て下さい」(22:20)と告白していることにより、すでに明らかです。

再建主義の誤りは、ヘブライ人への手紙の著者が「祭司制度の変更に伴って旧約律法が廃棄された」(7:11-19)と論証していることにより、すでに明らかです。

再臨論異端の誤りは、主イエスキリストご自身が「人に惑わされないように気をつけないさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」と警告されたことにより、すでに明らかです。すなわち、再臨論異端者の言う「見よ、これが来臨のキリストだ」という信仰そのものが、彼らの誤りを示しているのです。

なお、再臨論異端には、「1914年以来ずっとイエスキリストが目に見えない姿で空中再臨している」とするエホバの証人や、「2000年にイエスキリストではない新しいキリストが到来している」とするダビデアン(統一教会の教義をベースに取り入れた再臨論異端)があります。

また、再建主義については、カルヴァンは「公共の福祉の敵」と、一刀両断に切り捨てています(参照)


第四の一元主義?

高柳泉クリスチャントゥデイ社長は、ご自分のブログ「ソラグラティア」で、「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義」を奉じる山谷は異端だ、と明言するに至りました。

そうしますと、おそらく高柳氏は、「聖書根本主義に基づく宗教文化一元主義」を主張なさるのだろう、と想像します。

しかし、現経綸における「宗教文化多元主義的状況」という現実を、一元主義によって、どう説明なさるのでしょう?

一元主義で説明しようとする場合、「大きな一元主義」と「戦闘的な一元主義」と「気の長い一元主義」、この三つしか、現経綸においては考え得ないのではないか、と思います。

「大きな一元主義」とは、ヒンドゥー教も仏教もイスラム教も、実はキリスト教なのだ、という一元主義。(自他一如)

「戦闘的な一元主義」とは、ヒンドゥー教も仏教もイスラム教も、キリスト教の敵であり、それらを打倒し征服して、一元的世界を建設しなければならない、という血の気の多い一元主義。(原理主義)

「気の長い一元主義」とは、チルトンに代表される考え方で、40万年という気の遠くなる超年月の地道な宣教の結果、地上からヒンドゥー教も仏教もイスラム教も姿を消して、一元的世界が到来する、というもの。(再建主義)

さて、上記のいずれとも異なる「第四の一元主義」があるなら、ぜひ高柳氏から伺ってみたいものだ。


諸国民の後見人としての天使

イエズス会士でフランス学士院会員であるジャン・ダニエルー枢機卿は、「諸国民の後見人としての天使」について、『教父に見る天使とその使命』において、次のように述べています。(ジャン・ダニエルー「天使と諸宗教」『教父に見る天使とその使命』シェヴェトーニュ修道院出版部、1953年、pp.14-16.)

イスラエルの民への契約と律法の授与は、天使の仲介によって与えられた神の恩恵であるが、キリスト到来以前の他国民には、神の助けが全く無かったわけではなく、キリスト到来への備えから漏れていたわけでもない。(中略)

諸国民に対する神の助けとして、天使が果たした役割がある。神が諸国民を天使に委託したという教義は、古き伝統において普通に見られた。ユダヤ教に淵源を持つこの教義は、申命記32:8のギリシャ語訳に反映されている。「いと高き神は諸国民を分割し、アダムの子らを分離して、神の天使の数に従って、諸国民を委託した」 ダニエル書はギリシャの天使とペルシャの天使について述べる(ダニエル10:13-21)。後期ユダヤ教の黙示文書やアレキサンドリアのフィロも同様の教義に馴染んでいる。新約聖書の使徒17:26も、この教義を前提としているようである。「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました」 この教義は、教父にも見出される。イレナエウスが言及しており、アレクサンドリアのクレメンスはこう書いている。「天使の支配権が諸国民と諸都市に割り当てられた」「古き聖なる伝承によれば、諸国民に天使が割り振られた」 ヒュッポリュトスも同じことを述べている。

オリゲネスは自分の思索の体系の中で、この教義に重要な位置を与えた。「霊的な諸力が、この世の諸国民の上に立つ支配者として臨んで来た」 オリゲネスはユダヤ教の伝統に照らしつつ、諸国民の分割を、バベルの塔崩壊後の諸国民の離散と関係付けている。四世紀の教父もまた、諸国民の天使という概念に馴染んでいる。「すべての諸国民のかしらとして立つ天使が存在する、というのが、モーセの歌に見る教えである」「諸国民を保護し監視する無数の大天使、諸国民の天使が立てられており、諸国民に権威を行使している」と聖バシリウスは書いている。聖ヨハネ・クリュソストモスも同じことを述べている。

Nota Bene

ジャン・ダニエルー『教父に見る天使とその使命』は、次の奥付にて1957年に合衆国のニューマン出版社から英訳が出されています。

検閲通過:文書検閲官エドワード・ケルニー、聖スルピス会士、神学博士
印刷許可:バルティモア大司教フランシス・キオフ、神学博士
許可日:1956年10月15日


暇人氏へのレスポンス

HN「暇人」氏より、以下の御題を頂戴しました。すなわち:

カルト化したと危惧される教会の「聖書根本主義」なのであるが、この立場について山谷氏の立場からいかがであろうか。

<以下引用>

東京キリストの教会の「キリストの真理」

永遠に確かな真理

今や相対主義や主観主義が隆盛を極めています。広くみられる考え方としては、たとえば、絶対的な真理などというものはないとか、すべてが真理だとか、すべてが誤りだとか言うものです。このように誰でもその時々に自分に「真理」と思われるものを受け入れようとすればそれでいいかのようです。こういう考え方は、ある人々にはとても気楽に思われるかもしれませんが、多くの人々にとっては絶望に陥る原因なのです。出口が見つからず迷ったり、苦痛からのがれる方法が分からずに死と直面したり、赦される望みを知らず最後の審判の確実なことだけを恐れ続けるなどは、苦しみ以外の何物でもないではありませんか。そしてその苦痛がわずかばかり和らげられる時と言えば、自分の考えは単なる思いこみであって相対的なものにすぎないと結論づけるときだけなのです。ここにこそ私たちに真理の源として与えられている聖書の計り知れない恵みの意味があります。それはいわば流砂の只中に堅く立つ巌のようなものです。また、希望と信頼と救いの確信の堅固な礎なのです。その真理は絶対であり、永遠に残り、また変わることがありません。イエスが「聖書の言は、すたることがありえない」(ヨハネ10:35)と言われたとき、彼は私たちがいつも神の言に信頼することができると言ったのです。神の言は決して誤ることがなく、その真理は永遠に確かです。イエスの言われるように、「天地は滅びるであろう。しかし、私の言葉は滅びることがない」(マタイ24:35)。「草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」とペテロ第一の手紙1:25 は言っています(イザヤ40:8 の引用)。たとえ宇宙の他の言葉全部が誤りに陥ったとしても、神の言は真理として残ります(ローマ3:4)。 その真理は客観的です。それは誰に対しても同じように開かれています。

キリストの真理

それは特別な洞察によってしか得られない悟りのようなものではありません。神のメッセージは自分の内側の感覚や、軽率な意見に頼らなくても知ることができるのです。その真理には権威があります。聖書は神がくださった絶対的で客観的な真理ですから、私たちはそれに心や意志や命のすべてを差し出さなければなりません。このことだけがわたしたちの信仰の堅いきまりであるべきです。つまり、私たちの信じ教える教義は神の書かれた言から引き出されなければならないと同時に、それだけがわたしたちの実践の確かな基準とされなければならないということです。ですから、正しいか間違っているかは聖書に基づくべきです。ある人は聖書に従うということを、束縛されるというふうに重荷に考えるかも知れません。しかし、真理は人を奴隷とするものではなく、解放するものなのです。聖書の権威に従うすべての人への約束はこうです:「またあなたがたは真理を知るであろう。そして真理はあなたがたに自由を得させるであろう」(ヨハネ8:32)。

<以上引用>


これに対して、小生は、次のように回答しました:

ご紹介くださった「東京キリストの教会」のステートメントについて、次のように分析してみました。

論旨は大略、こういうことでしょう。

(1)真理には権威がある。
(2)権威には服従すべき。
(3)服従する者は自由になる。

以上について、小生は異論はありません。

しかし、もし、こういうことであるのなら、小生は、大いに異論があります。すなわち:

(1)聖書のみが真理である。
(2)××教団の××指導者だけが真理を正しく伝達する。
(3)××指導者の権威に従うこと<のみ>が真理への服従である。

もし、上記のように主張する者がいれば、小生は、聖パウロに倣い、「アナテマ」を言うでありましょう。

それでは、解題いたします。

まず、「真理には権威がある」「権威には服従すべき」「服従する者は自由になる」という論点について。

たとえば、「1+1=2」というのは、真理です。(もっとも、高等数学では、そうならない解も、あるということですが)

もし「真理には権威がない」ということであれば、小学一年生の教室で、子ども達が「1+1=任意の整数」と答案を書いても、マルになります。その子ども達が、そのまま大きくなれば、およそ、社会の基本的なシステムを成しているもの(スーパーのレジから、スーパーコンピューターに至るまで)大混乱に陥るでしょう。その結果、有人ロケットを打ち上げたら、いつも必ず行方不明になって、誰一人帰って来れない、というような事態になります。

次に、「聖書のみが真理である」かどうか、という点について。

これは、言う迄もなく、誤りです。

正しくは、「主イエスキリストのみが真理である」と宣言するのでなければなりません。

そうして、聖書は、このお方、主イエスキリストについて証言するものです。

さて、永遠にして唯一の真理である主イエスキリストは、その力と権威をもって、万物を創造されました。万物は、主イエスキリストの「王権的頭首権的統治」の下に置かれています。かしらである主イエスキリストから、万物の中へ、キリストの「権威」が分岐して流れ込んでいます。聖書はこれを、位、主権、支配、権威と称します。

キリストの「権威」の流入は、二つに大別されます。

ひとつは、「国家の絶対主権」です。これは、諸国家の「権力」の源泉をなすもの。
もうひとつは、「社会の分散主権」です。これは、諸言語、諸民族、諸文化、諸宗教の「権力」の源泉をなすもの。

上記は、まとめて「領域主権」ということができますし、「一般恩恵」ということもできますし、広義の「自然法」ということもできます。

さて、たとえば、小生は、いま、現代日本語を使って、この掲示板に書き込んでいますが、小生は、日本語の文法と語彙という「権威」のもとで、その権威に服従しつつ、文章を書いているわけです。

小生が、この「権威」を無視して、たとえば、「あばされあにまた、ぱらびれまにかた、さぢをきすれびし」と表現したとしても、それは、万人に対して、何ら意味をなしません。しかし、「権威に服従する者は自由になる」と書けば、その意は、現代日本語話者に必ず通じて、コミュニケーションが成立します。

それでは、このような「権威」の源泉は、いったい、どこにあるのか?

現代日本語の文法や語彙は、「社会の分散主権」のカテゴリーに属するものであり、その「権威」の源泉は、万物の創造者であり保持者であり統治者である主イエスキリストにあるのです。

それでは、次の問題。「××教団の××指導者だけが真理を正しく伝達する」というのは、真であるか、偽であるか。

言うまでもなく、偽です。

なぜなら、××指導者が説教の際に「てにをは」を間違えたら、彼の誤りを指摘することが出来るのは聖書ではなく、故金田一京助博士であり、一般の現代日本語話者であり、そこにいる、おじさん、おばさんであり、小学生にすら、できることであるからです。

さらにまた、××指導者が原付自転車で交差点の二段階右折を無視したら、彼の誤りを指摘することができるのは聖書ではなく、交通機動隊員であり戸越警察署員であり四谷警察署員であるからです。

そうしますと、最後の問題。「××指導者の権威に従うこと<のみ>が真理への服従である」というのは、真か偽か?

明らかに偽です。

永遠の真理である主イエスキリストは、絶対的な真理でありますが、その真理の権威は、「国家の絶対主権」と「社会の分散主権」とに分岐して、この「創造の世界」を保持し統治して、滅びへの退落から守っております。

××指導者は、この「世界の住人」の一員である以上、当然のことながら、(1)国民として国家の絶対主権に従属する主体であり、(2)市民として社会の分散主権に従属する主体であり、(3)教会員として歴史的教会の権威に従属する主体でなければなりません。

それゆえ、××指導者が、税を納めず、交通法規を遵守せず、囲碁将棋のルールを勝手に変え、ウェストミンスター信条を奉じると看板に書いておきながら洗礼も聖餐も廃棄しているのであれば、彼は、必ずや制裁を受けなければなりません。

なぜなら、××指導者は、真理をないがしろにし、権威を侮るものにほかならないからです。

しかし、それでもなお悔い改めず、「聖書のみが真理である」「わたしだけが真理を正しく伝達する」「わたしの権威に従うこと<のみ>が真理への服従である」と主張し続けられるのであれば、どうか「この世界」から出て行って、火星か木星にでも行って、おやりなさい。

しかし、その際、条件がある。どうか、聖書の紙だけを用いて、自分が乗り込むロケットを作り上げて頂きたいものだ!


ポスト・エヴァンジェリカリズムの神学

ポスト・エヴァンジェリカリズムの神学について、山谷が思い描いている姿です。

1.神学とは何か?

神学とは、キリストに結ばれた者たちが、(1)キリストと、(2)キリストのからだと、(3)キリストが統治する世界とを、キリストの眼で見、知り、理解し、愛すること。その結果、キリストに結ばれた者たちが、キリストに仕え、キリストのからだに仕え、キリストが統治する世界に仕える者になる。

それゆえ、神学は、「キリスト者の実存」を規定するものである。

2.神学の出発点は、「キリストに結ばれた者」である。

受肉者キリストの人格において、「神性と人性」「恩寵と自然」「予定と予知」「決定論と非決定論」「精神と物質」「自由と機械」という二項対立図式は超克されている。

(1)キリストは宇宙における唯一の結合点である。
(2)神学は、キリストという結合点を介して、二項対立図式を超克した仕方で、対象を認識することができる。
(3)神学の対象は、キリストと、キリストのからだと、キリストが統治する世界とである。
(4)キリストは、キリストに結ばれた者にとって「実在」である。
(5)キリストのからだは、キリストに結ばれた者にとって「実在」である。
(6)キリストが創造し、保持し、統治している世界は、キリストに結ばれた者にとって「実在」である。

それゆえ、キリストに結ばれた者にとって、万物が「実在」であり、万物が神学の対象となり得る。

3.神学の第一の対象は「キリスト」である。

キリストは
(1)聖書によって、あかしされ、
(2)聖霊によって、あかしされ、
(3)キリストに似た者となる途上の者たち(聖徒たち)によって、あかしされ、
(4)キリストのからだなる教会が宣べ伝える使信によって、あかしされ、
(5)キリストのからだなる教会の愛の実践によって、あかしされる。

それゆえ、神学は、聖書に聴き、聖霊に聴き、聖徒たちに聴き、教会の使信に聴き、愛の実践に聴くことによって、キリストを見、知り、理解し、愛し、そして、仕えようとする。

4.神学の第二の対象は「キリストのからだ」である。

キリストのからだなる教会は
(1)キリストをかしらとし、
(2)多様な肢体から成り、
(3)キリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さを知って成熟することを目指しており、
(4)キリストの再臨によって完成される。

それゆえ、神学は、キリストに聴き、多様な肢体から聴き、聖徒たちが到達した霊的成熟の深さから聴き、キリスト再臨へ顔をまっすぐに向ける希望に生きることによって、キリストのからだを見、知り、理解し、愛し、そして、仕えようとする。

5.神学の第三の対象は「キリストが創造し、保持し、統治している世界」である。

キリストが創造し、保持し、統治している世界は、キリスト者にとって
(1)キリストに愛されている実在であり、
(2)キリストという結合点を介して正しく認識することが可能な対象であり、
(3)世界が提供するものを、キリストの王的統治の賜物として受け取り、感謝して利用することができ、
(4)キリストのからだなる教会が使信を宣べ伝える対象であり、
(5)キリストのからだなる教会が愛の実践を行う対象であり、
(6)キリストのからだなる教会がその中を旅しつつ、そこから新たな肢体を獲得する「場」である。

それゆえ、神学は、世界に対して敬意をもって接し、二項対立図式に陥ることなく世界を認識し、世界が提供するすべての「良いもの」「正しいもの」「徳となるもの」をキリストと良心とのために適切に用いることによって、世界を見、知り、理解し、愛し、そして、仕えようとする。

すなわち、使信をより良く世界に伝え、愛の奉仕をより良く世界に行うために、世の中にありながらも世のものではないような仕方によって、教会は仕えようとする。

結び

こうして、教会は、世界に対して適切に使信を宣べ伝え、すべての隣人に対して適切に愛の実践を行い、人々をキリストに導いて、キリストのからだなる教会が全世界に立て上げられ、キリストの満ち満ちた身丈にまで成長し、キリストの栄光の再臨によって完成される。


ポストモダンの世界における弁証学

1.ポストモダンとは何か?

ポストモダンとは、<後ろ>という意味のラテン語「ポスト」と、<現代>という意味の英語「モダン」を組み合わせた造語です。

ポストモダンを提唱したフランスの哲学者ジャン・フランソワ・リオタールは、「ポストモダンとは、大きな物語の終焉である」と、簡潔に定義しました。

<現代>という時代を、どの期間と見るか諸説ありますが、現代人の生活で常識となっているもの、たとえば、ラジオ、冷蔵庫、洗濯機、レコード、自動車、高速鉄道、パーマ、飛行機、戦車、社会主義、実存主義など、そのほとんどが出揃って来るのが、1914年あたりです。

そこで、1914年から<現代>が始まった、と考えますと、逆に、<現代>が終焉したのが、ソビエト・ロシア崩壊の1980年代であった、ということになるわけです。急進的マルクス主義の哲学者であったリオタールにとって、「大きな物語」というのは、ほかならぬマルクス主義の哲学を指していたわけですが、その「大きな物語」は、それこそ、宇宙の成り立ちから、日々の生活の箸の持ち方に至るまで、あらゆる存在、あらゆる現象を説明しつくし、規定し尽くそうとする、壮大な世界観体系であったわけです。共産主義国だけが、そうした「大きな物語」に根拠して社会や人間の在り方を決めようとしただけでなく、共産主義に戦々恐々とする資本主義国もまた、マルクス主義の合わせ鏡としてのケインズ主義に根拠して社会や人間の在り方を決めることにより、共産主義化の圧力に対抗して立つことが出来たのでした。

しかし、その共産主義が崩壊してしまった1980年代の出来事は、リオタールにとって大きな衝撃であったわけで、リオタールはそれを、「大きな物語の終焉」「全体知の終焉」さらに「現代の終焉」として、意識したわけでした。

では、「大きな物語」が終焉した後の時代、つまり「ポストモダン」に生きているわたしたちは、いったい、どういう状況に置かれているのでしょうか? 

古き良き<現代>においては、「大きな物語」という全体的な構図の中に、個々人が居場所を与えられていたわけでした(ゆりかごから墓場まで)。ところが、ポストモダンにおいては、もはや、そのような「大きな物語」は、存在し得ません。ただ、無数の「小さな物語」が、「自己責任」という声高なかけ声が響く空の下で、個々ばらばらに存在しているだけなのです。それら「小さな物語」は、非常に強力な内向的エネルギーを持っており、絶えず内へ内へと向かいつつ、さらに細分化し、専門化し、タコ壺化して、「小さな物語」のくくりの中に、際限なくさらに多くの「小さな物語」を生み出して行くのです。個々人は、それら「小さな物語」の中に深く沈潜することによって、かつては「大きな物語」が提供してくれていたが、今では入手不可能となってしまった、「生きる意味」「生きる目的」の代替案としての、「自分の居場所」を、ようやく見出すことが可能になるのです。

それでは、キリスト教にとって、このようなポストモダンの状況には、いったいどのような問題があるのでしょうか?

キリスト教は、マルクス主義の哲学よりも、もっと古い、「大きな物語」である、と言うことができるわけです。聖書の啓示は、宇宙の成り立ちから、人間の存在の意味と目的、さらに、日々の生活における箸の持ち方に至るまで、あらゆる現象を説明し尽くし、規定し尽くそうとする、「壮大な世界観の体系」です。

「大きな物語」の有効性が、いまだ信じられていた<現代>にあっては、キリスト教は、状況はやや不利でありながらも、マルクス主義の哲学に「対抗」することによって(根本主義)、あるいは、マルクス主義の哲学に「融合」することによって(リベラリズム)、かたちとしては「大きな物語」「全体知」という構図を維持しつつ、布教活動を進めることが出来たわけです。

ところが、ポストモダンにおいては、もはや「大きな物語」の有効性を信じる人は、だれもいない。すべての人が、それぞれが深く愛する「小さな物語」の中に、深く沈潜することによって、「自分の居場所」を見出そうとしている。この状況においては、キリスト教もまた、細分化され専門化されタコ壺化された「小さな物語」の数あるひとつにしか過ぎない、という次元にまで、引き下げられてしまうわけです(サブカルチャー化するキリスト教)。これは、キリスト教が、教団や教派の伝統を大切に守れば守るほど、サブカルチャー化して行きますし、逆に、キリスト教が大胆に文化適合して、自己の姿を変えようとすればするほど、やはりサブカルチャー化して行ってしまうわけです。なぜなら、文化適合するとは、数ある「小さな物語」のどれかひとつを対象に選択して適合する、ということに他ならないわけですから、文化的に適合した伝道を進めれば進めるほど、キリスト教自体が、細分化されて行くことになるわけです。

さらに問題であるのは、人々が、それぞれの「小さな物語」の中に、自分の居場所を見出して、安心し切ってしまうことです。それとともに、他にもある無数の「小さな物語」に対して、自分の「小さな物語」が、どのように連絡を持っているのか、あるいは、連絡を持ち得るのか、ということについて、人々がだんだん無関心になって行く、あるいは、「小さな物語」の垣根を越えたコミュニケーションの可能性ということについて、だんだん絶望的になって行く、という状況があります。人々が「小さな物語」の中で完結してしまうのであれば、そして、その殻から出て来ない生き方を選択してしまうのであれば、これは、「大きな物語」としてのキリスト教の伝道の終焉を意味するでありましょう。

このようなポストモダンの状況にあって、いかにキリスト教を弁証するか、という課題が、わたしたちに突きつけられているのです。


2.弁証学とは?

さて、そのようなポストモダンの状況に生きる人々に、「大きな物語」としてのキリスト教を説得的に提示しようとする試みが、「ポストモダンの世界における弁証学」であるわけです。

キリスト教弁証学は、キリスト教が誕生した初代教会の直後の時代には、もうすでに始められていました。聖書に示されたイエス・キリストの救いを、その「時代」の人々に、いかに弁明し立証するか、という試みは、第二世紀のアレキサンドリアのクレメンスによって着手された、と見ることが出来ます。クレメンスは、当時の「現代思想」であったギリシャ哲学の「世界観体系」を適合的に利用しつつ、キリスト教の弁証を行おうと試みました。その後、時代の変遷と共に、それぞれの時代の「時代精神」は、次々と交代して行くことになるわけですが、その都度キリスト教は、その時代に適合した新たな弁証方法を編み出して来ました。それにはたとえば、12世紀のイスラム哲学に適合したトマス・アクィナスの弁証学。19世紀のドイツ観念論に適合したシュライエルマッハーの弁証学。20世紀の実存主義に適合したカール・バルトの弁証学が挙げられます。

それでは、ポストモダンという21世紀の「時代精神」に対して、キリスト教は、どうしたら、新たな弁証方法を見出すことが出来るのでしょうか? そのためには、ポストモダンという「時代精神」が、キリスト教に対して、どのような課題を突きつけているかを、見る必要があります。


3.今世紀の弁証学の課題

ポストモダンという21世紀の「時代精神」は、実にさまざまな挑戦を、キリスト教に対してつきつけているわけですが、それらの課題を整理すれば、次の三点にまとめることが出来るでしょう。

その第一は「文化多元主義」という課題です。

「大きな物語」が信じられていた、古き良き<現代>においては、「大きな物語」の担い手である西欧世界の文化を、一元的に世界に普及させることに、非常に大きな力が注がれました。それは、共産主義のオルグ活動や、冷蔵庫でキンキンに冷えたコカコーラを普及させる資本主義の営業活動ばかりでなく、キリスト教宣教も、同じであったのです。たとえば、北米から来た宣教師は、現地に到着すると、宣教団体からの豊富な資金によって、庭にプールがある西欧式の宣教師館を建設し、そこを基地として、西欧の言語、西欧の音楽、西欧の服飾、西欧の食品をも、伝え広めました。現地の人々がキリスト教に改宗するとは、単に福音の真理を受容するだけでなく、西欧世界の文化をも優越したものとして、一元的に受容することを意味したのです。

しかし、すでに「大きな物語」が崩壊しているポストモダンにあっては、西欧文化覇権主義は終焉しており、非西欧の言語、非西欧の音楽、非西欧の服飾、非西欧の食品が、西欧世界の文化と対等なものとして、確固とした場所を占めるようになりました。こうして、西欧文化もまた、「多数の中のひとつ」に過ぎなくなったのです。

それはまた、西欧文化と一体化したキリスト教が、「多数の中のひとつ」に過ぎないとみなされることをも、意味することになります。この「文化多元主義」の状況においては、これまでキリスト教を非西欧に対して文化的に優越した像として提示しようとして来た「古い20世紀の弁証学と伝道学」の方法論が、完全に意味を失ってしまいます。北米の南部バプテスト派が21世紀に入って、「ボード方式」の宣教(宣教団体が宣教師に資金を送り、宣教師が現地に宣教師館やミッションスクールなどの拠点を建設して、西欧文化を移植普及させつつ、現地人を教化改宗させる方法)を放棄して、「ハウスチャーチ方式」の宣教に切り替えたのには、そうした背景がありましょう。

その第二は「宗教多元主義」という課題です。

「文化多元主義」が常態となれば、当然次に到来するのは、「宗教多元主義」です。西欧文化が「多数の中のひとつ」にしか過ぎず、他の多くの文化に対して別段優越しているわけでもないのであれば、その西欧が2000年間奉じて来たキリスト教もまた「多数の中のひとつ」に過ぎないことになり、他の多くの宗教に対し何ら優越していないことになります。こうして、キリスト教の「優越性」と「唯一性」という像を提示して弁証し伝道して来た、古い20世紀の「新正統主義」と「根本主義」のキリスト教は、いずれも意味を失うこととなります。もちろん、意味を失うというのは、姿を消す、ということではなくて、もはや「大きな物語」としては機能できなくなり、無数に分岐し専門化した「小さな物語」のひとつとして、サブカルチャー化していく宿命をたどる、ということです。

その第三は「大きな物語の終わり」という課題です。

文化多元主義から宗教多元主義を経て、キリスト教が「多数の中のひとつ」となってしまいますと、これまでキリスト教が提示して来た、宇宙の成り立ちから日常生活の箸の持ち方まで説明し規定し尽くそうとする「キリスト教的世界観体系」というものは、もはや、「数ある多くの物語の中のひとつ」に過ぎない、ということになり、こうして、キリスト教世界観もまた、「小さな物語」の膨大なメニューのひとつに仲間入りすることになります。

「小さな物語」の中だけで生きる人にとっては、その物語は、内部の小さなコミュニティーに意味を与えるだけで必要十分ですから、そのコミュニティーの垣根を越えて発信したり説得したりするようなエネルギーは、行き場を失うこととなります。すると、そのエネルギーは、内向化する力に振り分けられることになるのです。

宇宙の成り立ちを説明しようとする「七日間創造説」は、ダーウィンの『種の起源』発表以前の19世紀前半においては、「普遍史」として、キリスト教神学のみならず、西欧の歴史学に対しても、大前提となっていました。20世紀に入っても、根本主義のキリスト者は、まだなお、「創造説」に基づく「普遍史」を、歴史学の大前提として固守することが出来るし、また、固守すべきであると信じて、南部諸州で裁判を闘いました。ところが、21世紀になりますと、そもそも「普遍史」という考え方自体が、歴史学の世界において崩壊し、無数に細分化された個々人の「小さな物語」によって叙述される、無数の小さな歴史、という「小さな歴史学」が趨勢となって来たのです。こうなりますと、「創造説」を「普遍史」として主張することは、ナンセンスとなり、「創造説」は「個人史」の中でしか、意味づけられないことになってしまいます。北米の根本主義のキリスト者が、公教育での「創造説」の義務付けをめぐる裁判を放棄して、21世紀になると、公教育そのものを否定視するようになり、個々人の家庭で子弟を「創造説」に基づいて教育するという「ホームスクーリング」にシフトして来ているのには、そうした背景がありましょう。


4.ポストモダンの弁証学の姿は?

それでは、上述のような「文化多元主義」「宗教多元主義」「大きな物語の終わり」という課題をつきつけられて、わたしたちは、どのようにキリスト教を弁明し立証して行ったらいいのでしょうか?

この課題について、多くのキリスト者が取り組んでおりますが、来るべき新しい弁証学のかたちについては、いまだ、明らかにはなっていません。しかし、少なくとも言えることは、ジョン・ヒックの「宗教多元的キリスト教」や、巨大な内向的力でどんどんサブカルチャー化しつつある「根本主義のキリスト教」は、論外だ、ということです。

しかし、ポストモダンのキリスト教弁証学の「かたち」に、示唆を与える思想として、ここで三人のキリスト教神学者を紹介したいと思います。それぞれについて詳細に論じると、それだけで数十時間かかってしまいますので、名前と、その特筆すべき思想と、それがポストモダンの状況に対して持つ意義について、簡単に触れるだけとさせてください。

(1)カール・ラーナーの「ケノーシス・キリスト論的・超自然的実存規定」

第二ヴァチカン公会議の方向性を決めた神学者の代表であるカール・ラーナーは、「結合点」の問題について、重要な提案をしました。結合点とは、本来は、神と人間との間のコミュニケーション可能性をめぐる問いであったわけです。ところが、無数の「小さな物語」に細分化されたポストモダンの世界においては、神と人間とのコミュニケーションどころか、人間と人間との間のコミュニケーションすら、絶望視されつつある状況にあります。ラーナーの「ケノーシス・キリスト論的・超自然的実存規定」とは、<キリストの受肉>を徹底的に考え抜くことによって、神と人間との間のコミュニケーション可能性ばかりか、人間と人間との間のコミュニケーション可能性をも「確実」とした、出色のアイデアです。キリスト教弁証学が、このアイデアを採用すれば、ポストモダンの世界像とは、無数の「小さな物語」が、神の普遍的な恩恵によって相互に結び付けられた、「コミュニケーション・ネットワーク」という、希望に満ちた像となり得るのです。

(2)ヘンドリクス・ベルコフの「ストイケイア論」

世界教会協議会のエキュメニズムに多大な貢献をしたオランダの教義学者ヘンドリクス・ベルコフは、「中間領域」について、重要な提案をしました。中間領域とは、本来は、神と人間との間を介在する、創造の秩序としての「一般恩恵」であったわけです。ところが、「宗教文化多元主義」のポストモダンの世界においては、西欧文化という「一般恩恵」が地歩を失い、もろもろの非西欧文化、そうして、無数に細分化されたサブカルチャーが、世界を席巻し占領しつつあるのです。ヘンドリクス・ベルコフの「ストイケイア論」は、<神と人間の間の緩衝地帯としての天使的諸力>を徹底的に考え抜くことによって、無数に細分化されたサブカルチャーにも、「堕罪後の創造の秩序」としての「一般恩恵」の地位を保障し、しかも、文化やサブカルチャーの「悪鬼化」という課題についても、明確な回答を与え、悪鬼化に対処すべきキリスト教会の道筋をも、きちんとつけた、出色のアイデアです。キリスト教弁証学が、このアイデアを採用すれば、ポストモダンの世界において、キリスト教会は、すべての非西欧文化や無数のサブカルチャーについて、それを、キリストの恩恵として、感謝し喜んで用いつつも、しかし、それらの中の悪しき要素については、きちんと抗議して、その是正を求め、その変化に協力するという、是々非々の対応を取ることが、可能となるのです。

(3)オスカー・クルマンの「救済史神学」

第二次世界大戦直後に著した『キリストと時』において、様式史批評と新約聖書神学に拠りつつ、ブルトマンの非神話化論を批判的に超克した神学者オスカー・クルマンは、「救済史神学」という重要な提案をしました。それにより、歴史学の「下部構造」としての「普遍史」を、再びよみがえらせようと目論見たのです。ダーウィンの進化論によって葬り去られたかに見えた「普遍史」は、マルクスの汎神論的な弁証法史観に形を変えて、20世紀まで命脈を保ちました。ところが、ポストモダンの世界においては、ウォーラーシュタインのような「全体知」になお望みを置く一部の歴史政治学を別にすれば、無数の「個人史」「地方史」「社会史」によって専門化され細分化された「小さな歴史学」が主流となり、「普遍史」の場所は、消滅してしまいつつあるのです。オスカー・クルマンの「救済史神学」は、キリストを「時の中心」に据える聖書の時間論を展開することによって、「上部構造」としての<歴史>すなわち・生きられ・経験され・記憶され・叙述され・伝承される・無数の個々の歴史に対して、それらを保障し成立させしめる「下部構造」としての<救済史>を鮮やかに描き出す、出色のアイデアです。キリスト教弁証学が、このアイデアを採用すれば、いまは個々の歴史が相互に関連性を失ってバラバラに存在している「小さな歴史」を、キリスト初臨と再臨という「中間の時」の枠組みを使うことによって、それぞれの固有の「小さな歴史」の独自性を尊重しつつ、「普遍史」という全体の構図の中に、きちんと位置づけることが可能になるのです。


結びに代えて:ローワン・ウイリアムズ・カンタベリー大司教の言葉

以上、ポストモダンの状況が、わたしたちキリスト者につきつけている課題が、どのようなものであるかを概観し、さらに、ポストモダンの世界に対してキリスト教を弁明し立証しようと試みる「新しい弁証学」が、どのようなかたちのものになり得るか、それについて示唆を与える、カール・ラーナー、ヘンドリクス・ベルコフ、オスカー・クルマンの思想に、ごく簡単に触れました。「新しい弁証学」の姿は、いまだ、明らかになってはいませんけれども、それが、どのようなものであるべきかを、カンタベリー大司教のローワン・ウイリアムズ師が、次のように述べています。これは、今年の2月にブラジルのポルトアレグレで開催された、第9回世界教会協議会総会の「宗教多元主義の世界におけるキリスト教伝道を考えるフォーラム」で、大司教が行った発言です。その言葉を引用して、この論考の結びの言葉に代えたいと思います。

「イエスが私たちの実存を規定している。そのような場に属することが、キリスト者の自己同一性です」

「キリスト教の究極性は、『自分は絶対的真理を知っている』と主張することではなく、『自分は世界をこう見ている』という世界観にあります」

「キリスト教の世界観は、私たちの心の奥底の傷や恐れを変革し得るものです。まさにそれゆえに、キリスト教の世界観は、世界の最も重要な次元を変革することが出来るのです」

「キリスト教の世界観とは、イエスがおられる場所に依って立ち、イエスの権威のもとで、イエスの命の息を吹き込まれつつ、イエスの眼で世界を見ることにほかなりません」


天使的諸力の悪鬼化

清水義樹は、「天使的諸力が悪鬼化する」という新約聖書の概念について、『教義学講座』において、次のように論考しています。(清水義樹「創造論・付天使」『教義学講座1・教義学要綱』日本基督教団出版局、pp.201-202.)

見えない霊的存在である天使が、サタン化するということは、どういうことであるのか。この問題を念頭に置きながら、ローマ人への手紙13章1節以下の、上に立つ権威exusiaをとりあげたいと思う。これを天使的権力と考えるものと、それに反対するものとの両者が今日の神学界に存在している(前者がバルト、シュミット、デーン、クルマン。後者がキッテル、アルトハウス、ミヘルなどである)。キッテルは新約聖書で90回のうちほとんど80回までがexusiaは普通の権力を意味しているので、ローマ人への手紙のこの箇所も、世俗の国家権力の意味に解釈せねばならぬというのである。これに対してクルマンは、この言葉は単数使用のばあいは問題外として、複数使用、あるいはすべての権威というように単数の複数的意味の使用のばあいは、天使的権力に関係づけられているという。そしてパウロはローマ人への手紙のこの場所では、天使的権力を考えているといってよい。またパウロには世俗的意味でのexusiaを考えることを否定はしないが、彼の根本思想は天使的権力を考えているといわねばならない。地上の国家はこのような天使的権力の具現であり、機関である。パウロはコリント人への第一の手紙2章7−8節、6章3節でも、地上の国家支配のもとに見えない支配者を考えていることは明瞭であるといわれている。ローマ人への手紙のこのところでも、地上の国家支配者は神の僕であるということは、そのもとにある天使的権力が、神によって秩序づけられているからであると解釈せねばならない。
ところがこの同一の国家権力にキリスト者は、死をもって反対せねばならぬときがある。それはこの国家権力が、皇帝礼拝を強要するときである。ここに国家権力はサタン化するのである(黙示録13:1以下)。同一の国家権力が神の僕となるとともに、サタンとなるということは、その背後に天使的権力を考えるとき、よく理解できるといわれる。天使的権力がキリストの支配のもとにあるとき、その機関としての国家権力は、キリストに仕える。けれどもキリストの支配の外ではなく、支配のなかで、その支配から離れるとき、国家も自己目的化してサタン的になるのである。ここに終末的神の国にいたるまでの中間時代の特色があるといわねばならない。


義認と法

カール・バルトは、新約聖書に見る「キリストのしもべ・であり・かつ・悪鬼的し得る・国家権力」という概念について、ナチスに対する「告白教会」の戦いの中で行った講演「義認と法」において、次のように述べています。(カール・バルト「義認と法」『カール・バルト著作集6』 pp.204-209.)

近年になって初めて、『ローマ3:1及びテトス3:1でパウロが用い、またルカ福音書12:1においてもたまたま政治上の上司を現すために用いられている「権威」(エクスーシア)という言葉は、その他の場合にも新約聖書で複数形で現われるときには(あるいは、「すべての」(パサ)という言葉と共に単数形で現われるときには)いつも、聖書の世界像及び人間像の著しい特徴をなしている「天使的力の群れ」を意味している』という、昔から明白であった事情に、再び強い注意がむけられるようになった。この「権威」(エクスーシア)という言葉は、「支配」(アルカイ)、「支配者たち」(アルコンテス)、「権力」(デュナミス)、「王座」(スロノイ)、「権勢」(キュリステーテス)、「御使」(アンゲロイ)等々の言葉と同様のものであって、これらすべての言葉と概念の上から区別することは、恐らく困難であろう。(恐らくは、それは、それらの言葉と共に、「御使」という類概念にまとめられうるであろう。)すなわち、「権威」(エクスーシアイ)とは、造られた力でありながら、しかも不可見的・霊的・天的な力であって、他の被造物の中にありつつ、またその上にありつつ、或る独立性を持ち、このような独立性を持つことによって、また同時に或る卓越した価値・課題・機能を持ち、或る現実的な影響を及ぼすものである。ギュンター・デーンによってなされた指摘は、『新約聖書に述べられた教団が、国家・カイザル或いは王・国家の代表者たち・その働きのことを考えた場合、教団は、この国家において代表されそこに働いている天使的力の像を、眼前にしていたのである』という、すでに用語の上から生じて来る強い蓋然性を、さらに確実なものにする。われわれは、すでに、イエスを釈放するか或いは十字架につけるかというピラトに対してゆだねられた可能性を示すものとして、単数形で用いられた権威(エクスーシア)という概念のことを語った。また、われわれは、1コリント2:8では、「支配者たち」(アルコンテス)という概念によって、明らかに国家のことを考え、それと共に、天使的力を考えなければならないのであるが、これとても同様である。『このことによって明らかに示されているのは、国家というものが、どのようにローマ13章で述べられているような神の意志と定めによって定められた法の擁護者から、黙示録13章に述べられているような竜によって力を与えられ・皇帝礼拝を要求し・聖徒を攻め・神をけがし・全世界を征服する底なき所から上がる獣にまで、成りうるかということである』と主張されているのは正しい。天使的力は、まさに荒廃し・堕落し・腐敗し、かくてデーモン(悪鬼的)力となりうるのである。・・・・・・以上のようなすべてのことが、政治的な天使的力にも適用された場合、どういう結果になるのであろうか。それは、言うまでもなく、この力が─国家そのものが、根源的・究極的にイエス・キリストに属しているということである。すなわち、国家は、その相対的な実質・価値・機能・目標設立によって、イエス・キリストの人格と御業に─したがって彼において起こった罪人の義認に、奉仕しなければならないということである。もちろん、国家は、デーモン化(悪鬼化)されうる。教団がデーモン化した国家を相手にするということが、いつも起こりうるということ、また事実起こるということを、新約聖書は隠しはしない。この見地から見ても、明らかに国家のデーモン化(悪鬼化)ということは、人々が通常強調して言うように、不当な自主化ということであるよりも、むしろその正当な相対的な自主性が喪失されるということであり、それ本来の実質・価値・機能・目標設定を放棄するということである。そして、やがてこの放棄と共に、皇帝礼拝とか国家神話とかその他のものが、結果的な現象として起こって来るのである。・・・・・・国家が教会に対して真実な正しい自由を与え、『わたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごす』(1テモテ2:2)ことによっても、国家は真理に対して『局外中立的』(ニュートラル)なその存在を事実的に証明することができる。この事実を、われわれは、新約聖書の天使論の光に照らされる場合には、否定しえないのである。


ストイケイア

ヘンドリクス・ベルコフは、パウロ神学の概念である「民族・文化・宗教・国家を支配するストイケイア」(宇宙の構成に関わる諸霊)について、『キリストと諸権力』において次のように論考しています。(ヘンドリクス・ベルコフ、藤本治祥訳『キリストと諸権力』日本基督教団出版局、1969年)

後見人である諸権力

パウロは、人間の生が一連の諸権力(位の霊、主権の霊、支配の霊、権威の霊)によって規制されているとし、時間(現在のもの・将来のもの)、空間(深いもの・高いもの)、生と死、政治と哲学、世論とユダヤ律法、敬虔と伝統、運命的な星の動きなどについて語り、キリストを離れた人間はこれらの諸権力に依存する以外にないことを明らかにした。諸権力は人間の命数を定め、人間の運命を導く。時代の要求、将来の不安、国家と社会の制約、生と死の限界、伝統と道徳の葛藤、これらはみなわれわれの「後見人」であり、人間の生活を結びつけて、世界を混乱から守る力である。p.20.

パウロの天使論の独自性

宗教史的背景にさかのぼって考えると、パウロが、ユダヤ的黙示文学の世界で考えられていたものとは全く異なった形の諸権力を考えていたことは明らかである。天使的諸力が地上の出来事を左右するという考え方は、黙示文学者たちにとっては自然観の一断面にすぎなかったが、パウロはその点に興味を持っていた。黙示文学がこの天使的諸力の影響をおもに自然の出来事(あるいは状態)の中に見たのに対し、パウロは、それを生命のあるもののごとく、その広さと深さにおいて本質を見抜き、特にそれを人間と結びつけて考えようとしたのである。p.22.

神・諸権力・人間

コロサイへの手紙1章17節に、「万物は彼(キリスト)にあって成り立っている」とある。動詞「スネステーケン」は、今日でいえば英語の「システム化」にあたり、パウロがそこで言おうとしていることは、創造のシステムとなっているのは、諸権力ではなくキリストである、ということである。教会のかしらであり初めの者であるキリスト(18節)に従うときに、あらゆるものがその固有の場、すなわち神の意図された場に置かれる。そのとき諸権力は、世界の意味を支える不可視的基盤として、創造の支柱の役目を果たす。だからパウロは、決して諸権力それ自体を邪悪なものと考えているのではない。それどころか、諸権力は神の愛と可視的な人間の経験との橋渡しをするものであり、生命をつなぎとめ、それを神の愛の中に維持し、神との交わりに固く結びつける助けとなる。それは神と人間との間を裂く障害物ではなく、結合のきずなである。神に仕えるための助けとして、道標として、諸権力はそれを実現する枠づけをする。p.29.

諸権力の世界維持機能

すでにわれわれは、堕罪後の世界においてすらも、諸権力は神によってたてられた機能の一面を持ち続けることを知った。それらは依然として創造のわくづけであり、被造世界を崩壊から守っている力である。諸権力は、世界を水没させる混沌の洪水をせきとめる堤防である。これがきわめて重要な役割であることは、パウロもよく理解している。彼がそれをガラテヤ人への手紙4章1節から11節でいみじくも表現していることは、われわれが「ストイケイア」(宇宙の構成に関わる諸霊)との関連においてすでに論じたところである。その箇所で彼は、彼の手紙の読者たちに、彼らがイエス・キリストのうちに生ける神を見いだすまでは、かつて世の諸権力の下に生きていたことを想起させ、その時彼らは「子どもであった」(3節)といっている。人間がキリストによって贖われると、諸権力の奴隷から解放されて神の子となり、神にのみ頼り、神にのみ従う者となる(4、5節)。しかし、それは、以前諸権力に従っていたことを絶対的に非難廃棄することを含んでいない。そのような従属は不可避的であったし、また確かに神の恵みのわざでもあった。人間はキリストを離れては「子ども」に過ぎず、自らの道すらも見いだしえない者である。もし自らを本能的に任せうる諸権力がないならば、人間の生は放棄分解されるであろう。というのは、神は世界を可視的なものと不可視的なもの、すなわち、人間と諸権力とを互いのために創造されたからである。神の保護によって、人間は「管理人や後見人の監督の下に」(贖いの)外側に立っていた。諸権力はわれわれに対して責任をとり、われわれの生命を確かな保護のもとに置き、神の世界維持が終わって、より完全な贖罪のわざに包含される時に備えて、それを守り導いてくれる。このように、神から離れた世界の中では、諸権力はきわめて積極的な機能を果たしている。それは人間を生かし続ける機能である。p.36

諸権力と民族・文化・宗教・国家

このような理解は、非キリスト教世界がそれによって今まで存在し現在も続いている宗教的社会構造を考えるとき、特に明確になってくる。ある諸力は人間に団結力を与え、社会的にも個人的にも生きる方向を示しその道を備える。原始民族における氏族・種族の役割や、数世紀にわたって中国人の生活と形式と内容を与えてきた祖先崇拝の役割がそのよい例であろう。また、日本の神道、インドのヒンズー的社会秩序、古代バビロニアにおける占星論的一致、ギリシア人にとって深い意味をもつポリスや都市国家およびローマの政治なども同様の役割を果たしたものとして指摘できよう。それだけでなく、現代の国家もまた「ストイケイア」(宇宙の構成に関わる諸霊)によって支配されていることは明らかである。聖書がこの状態を奴隷の状態として明瞭に指摘しても、それがなおも神の世界維持というあわれみの一部であり、キリストによる開放がないところにも、人間はなおも生命をつなぎとめうるのだ、ということを忘れてはならない。pp.36-37.


パウロ神学における天使的諸力

オスカー・クルマンは、パウロ神学に見る後期ユダヤ教の天使論の影響について、その古典的名著『キリストと時』において、次のように論じています。(オスカー・クルマン、前田護郎訳『キリストと時』岩波書店、1954年、pp.194-197.)

後期ユダヤ教の天使論

天使に関する後期ユダヤ教の考え、中でも「諸民族の天使」についてのそれは、新約の確実な信仰の内容に数えいれなければならない。
ユダヤ教の中で広く流布していた、諸民族支配の天使の信仰の重要性を、はじめて指摘したのは、マルティン・ディベリウス『パウロの信仰における諸霊の世界』(1909年)の功績である。ギュンター・デーン『天使と権力 ローマ書13:1−7の理解のための一つの寄与』(カール・バルト50回誕生記念、1936年)は、この指摘を取り上げて詳細に論じた。

すべての民族が天使によって統治されるというこの後期ユダヤ教の信仰は、多くの例証を持っているが、ことにダニエル書、イエス・シラク、エノク書にそれが見られ、そしてタルムードやミドラシュにおいてもまた指摘しうる。

この信仰にもとづくならば、どうして地上の人間界の国家権力が、そのような天使の勢力の領域に属するかが理解できる。これら天使の勢力は、キリストを十字架につけた国家当局者の背後に存在したのである。これが、本章のはじめのところでふれた「アルコンテス・トーン・アイオーノス・トゥートゥー」(このアイオーンの司たち)である。同様にコリント前書6章3節も、原始キリスト教の考えによれば、これら見えざる天使の勢力が地上の国家の背後にあることを証明する。なぜならば、この仮定にもとづいてはじめて、次のことが意味をもつからである。すなわちパウロは、彼が教会にあてて、キリスト信徒の間では、国家の裁判所による裁判沙汰を避けるようにと忠告したことに対する理由として、教会に属する者たちは、世の終わりに「天使」を裁くであろうという点を指摘するのである。

エクスーシアイの釈義

いわゆる「キリスト論的に、国家を基礎づけること」は、従ってその反対者たちから通常前提されるように、ローマ書13章1節の「エクスーシアイ」(諸権威)の解釈のみに依存するものでは決してない。それは、諸民族統治の天使に関する、極めて明らかな後期ユダヤ教的な考えにもとづく。これが原始キリスト教にとりいれられ、ここで、「キリストによる天使の諸勢力の征服」に付与される意義と関連して、極めて重要な役割を果たすのである。そのゆえに、この天使及び諸勢力の観念を、パウロ神学の末端的位置に置くことは正当ではない。

かの有名なローマ書13章1節以下の箇所は、天使の勢力と見るこの考えを支持するものを持っている。この考えに基づく時に、その部分全体がはじめて真に明らかとなり、そしてパウロの思想全体と一致することが見られるであろう。

かくてその連関をみれば、国家のことがいわれていることは、完全に明らかとなる。しかしこのことは、他の二つのパウロの箇所でも見出され、また後期ユダヤ教にとっても例証の多くあるその考えが、いまの場合にも存在していることを証明するにすぎない。すなわちそれは、現実の国家権力が、天使の勢力の執行機関と考えられていることである。世俗的ギリシャ語で、単数及び複数が(アルカイ〔政治〕との組み合わせにおいても)、この世の権力だけしか表さない事実は、ローマ書13章1節以下でも、この意味だけが考慮されうることの証明のひきあいに出されてはならない。世俗的なギリシャ語の世界は、天使の勢力についての後期ユダヤ教及び新約の考えを知らない。したがってその世界にはそれに応ずる「エクスーシアイ」の語の用法もまた無縁であることは、自明の理である。パウロにとっては、その「エクスーシアイ」が他では常に天使の勢力を意味するが、ここでも彼は、それを更に厳密に、国家権力の背後にひそむ見えざる天使の諸勢力として考えている。このことは多分、彼もよく知っていた、その語をこの世の歴史に用いるまさにその用法によって示唆されたのであり、彼はそれに後期ユダヤ教的─新約的用法を結びつけた。かくしてパウロにとっては、その用語の二重の意味が現われる。この意味はいまの場合に、ぴったりと事態に即する。それはまさに国家が、見えざる諸勢力の実行的機関であるからに他ならない。


クティシス

ドイツ新約聖書註解(NTD)で、ヨハンネス・シュナイダーは「ペテロのクティシス」の問題について、次のように記しています。(『NTD新約聖書註解 公同書簡』pp.155-157.)

ペテロの第一の手紙2章13から17節は、異教の政府と社会に対するキリスト者のとるべき態度を規定するものであるが、<クティシス>というギリシア語をどう理解するかによって、13節の意味が変わってくる。聖書の語法において、これはいつも「創造」または「被造物」を意味する。この意味から出発するとすれば、著者は各論に入る前に一つの一般的原則を立て、すべての隣人に対して謙遜なれということを、すべての基本として要請した(ローマ12:10)、と見なければならない。だがそうだとすると、上なる権威に従えと言っている以下の発言が、困難をもたらす。なぜなら、著者は人間一般に対するキリスト者の関係を規定しようとしているのではなく、国家に対する彼らの立場を明らかにしようとしているからである。以上の理由に基づいて、<クティシス>という言葉は(ギリシア語にはそういう語法はないのだが)、権威を要求する「秩序」という意味に理解すべきであろう。著者は国家を人間の制度として規定しているのである。パウロはローマ人への手紙13章1節において、上なる権威は神から出たものだと明言しているが、この著者は基本原則の叙述において、そこまでは行っていない。しかしこの「人間の」制度を、その根源は明示していないが、やはり肯定しているのである。われわれはこの13節から、上なる権威は神の望まれたもの、だが神が直接立てられたものではない、という思想を読み取ることができよう。国家の秩序に対する服従は、ただ国家が自分の意志として服従を要求するというだけの理由ではなく、「主のために」という宗教的理由から、なされるべきである。主がそれを命じたもう。主の御意によって、国家に対するキリスト者の内的義務づけが生じるのである。またその故に彼は、国家の要求をいやいやながら、または無関心な消極的態度で行うのではなく、信仰に基づいた賛意をこめて行うのである。ペテロの第一の手紙は、国家権力の叙述において、ローマ人への手紙13章におけるパウロの場合より、より具体的かつ厳密である。「王」というのはギリシア語圏における皇帝の呼び名であるが、この著者は「王」とならんで、上に立つものとしての「総督」をあげている。これは皇帝が諸属州に派遣した最高の管理職であり、彼らは皇帝の名において支配を行ったのである。国家がその代表者において姿を現している場合、いずこにおいても国家は尊重され、その指令は守られなければならない。従って、皇帝の全権で任命され、国家の至上権によって権威を賦与されている官吏は、皇帝自身と同様に尊敬されるべきである。総督に言及されていることは、皇帝がすべての支配領域において、支配者としての要求と権威をもって現在する、ということも併せて明示している。14節によれば、皇帝の官吏たる者の決定的任務は、裁判を行うことである。裁判は、法の倫理的理念に基づいて考えるならば、悪人を罰し、善良な市民の功績を認めて公に報奨する、という課題をになっている。従って、国家は正しい判断を下すこと、その行動に対する基準は正しいものであること、また国家に付与されている権力を正義の遂行に役立てることを、期待されているのである。キリスト者は、当局の倫理的業績を承認しなければならない。こう述べることによって、法治国であることが国家の本質だ、という命題から出発した発言を、行っているのである。事実法治国であることによってのみ、国家は個人を超えた存在であり、権威を要求する秩序維持の権力であることができる。国家自身が法を破り、正義の守護者たる任務を遂行しない場合にはどうすべきかという問題は、この考察の視野の外にある。そのような場合について、著者は何の指示も与えていない。国家がその権能を越えて、キリスト者に皇帝礼拝への参加を要求した後の時代には、事情は異なったものになった(黙示録13、17:5-6)。この手紙が書かれた時代には、キリスト者の集会が国家を原則的に承認していても、否応なしに国家と衝突せざるを得ないというような経験は、まだ存在しなかったのである。ペテロの第一の手紙の著者が、パウロの場合と同じく、異教の国家に対して肯定的発言をしていることは、注目すべきことである。異教国家もまた法治国たり得るのである。なぜならば、法の理念は異教世界にも存在するからである。


天使的諸力

天使的諸力の概念に関する新約聖書の用語、エクスーシア、アルコーン、デュナミス、スロノス、キュリオテースについて、ゲルハルト・キッテルの『新約聖書神学事典』は、次のように述べています。

エクスーシア

超自然的諸力を指す、新約聖書における特殊用法。「この世の支配者」と共に用いられることが多い。ヘレニズムやグノーシス主義には見られない用語であるが、『イザヤの昇天』、『12族長の教訓』、キリスト教グノーシス主義諸文献、黙示的使徒言行録において見られる。エクスーシアは、ユダヤ教の土壌において発展した概念を基礎としており、悪鬼とは区別されるが、この世の支配者とは曖昧不可分な、宇宙的諸力を指す。パウロは、ユダヤ教における「自然界を支配する諸力」の概念を、ヘレニズムにおける「宇宙を支配する諸力」の概念と合わせて使用している。かくて、神と人間との間にあって、人間の生活を支配する様々な諸力が存在していることになる。エクスーシアは、被造物としての性質を持ち、キリストにあって、キリストのために創造された(コロサイ1:15−16)。緊張関係が存在するものの、二元論ではない。エクスーシアは、人間をキリストから引き離すことが出来ない。

アルコーン

社会における「高官」を指す用語。ダニエル書10章では、諸国を代表し守護している天使的存在の意味で使用されている。
新約聖書では、パリサイ派が<イエスの悪霊追い出しはベルゼブルによるものだ>と論難した文脈において、「悪鬼の王」の意味で用いられている(マタイ12:24)。しかし、アルコーンの力は打破されている(ヨハネ12:31)。アルコーンは、罪のないキリストに触れることすら出来ない(ヨハネ14:30)。アルコーンは、すでに裁かれている(ヨハネ16:11)。パウロは、アルコーンが非キリスト者の中に働いている、と言う(エペソ2:2)。この支配するアルコーンの力は、彼らが無知のゆえに、栄光の主キリストを十字架につけたために、失われることとなった(コリント前書2:8)

デュナミス

キリストの出来事は、悪鬼的諸力としてのデュナミスについて、明らかにしている。新約聖書は、悪鬼的諸力の存在を認めている。それらは、宇宙的諸力であると同時に、天使的諸力でもある。悪鬼的諸力は、キリストの復活によって打破され、キリストの再臨に際して、公然とさらしものにされることとなる。復活と再臨との間に、緊張状態が存在する。悪鬼的諸力は武装解除されたが、それは、信者が神から新しい命を受けて、神の支配の下に移されたからである(エペソ1:20−21、ローマ8:38−39)。それでもなお、悪鬼的諸力は戦っているが(黙示録13:2)、最終的には降伏する(1コリント15:24)。反キリストは、悪鬼的諸力と共に到来し、偽りを広めるが、キリストの再臨によって、ついに滅ぼされる(2テサロニケ2:9)。

スロノス

天使の階層の一つ。コロサイ1:16において、超自然的な諸力のひとつとして言及されている。その言及によると、天使的諸力の中の最高位階を指しているように思われる。

キュリオテース

「力」あるいは「権威」を指す用語。コロサイ1:16において、天使の階層のひとつを指す用語として使用されている。ユダ書8節では、偽教師が、その自由主義ゆえに<権威ある者をそしる>と言われているが、そこでは天使的諸力よりむしろ、神的な栄光(あるいは神御自身)を指していると考えられる(2ペテロ2:10参照)。


諸宗教との協力

「人類を保護する」というのが、現経綸における諸宗教の「世界管理者」(オイクメネー)としての任務であるとすれば、キリストの教会は、この任務を実行する諸々の活動において、諸宗教と協力することができる。

すなわち、核兵器の廃絶、貧困問題の解決、社会正義の実現、公正な政治の確立、エイズ問題の解決、戦争への反対、等々において、キリストの教会は諸宗教と共に行動することができるし、また、行動する。

しかし、ある宗教が、「自分たちの指導者であるだれそれは来臨のキリストである」と信奉する場合には、キリストの教会は、その宗教と絶対に協力することができない。

なぜなら、その宗教は「世界管理者」(オイクメネー)としての分限から逸脱しているからである。すなわち、本来的に「キリストのしもべ」であるものが、自らを「来臨のキリスト」と称することは、絶対に許されないことだからである。


包括主義との違い

「救いはイエスキリストを通してのみ」というのが排他主義である。

「救いはイエスキリストを通してのみ。しかして、イエスキリストの救いは他宗教を通しても分配される」というのが包括主義である。

「救いはイエスキリストを通してのみ。しかして、人類がイエスキリストの救いに入る日まで、人類が滅亡しないよう適切に管理する<後見人>が、他宗教である」というのが、「聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義」である。つまり、諸宗教は「救いの門」ではないが、しかし、救いへと招かれている人類の生存を保障する「世界管理者」(オイクメネー)である。それゆえ、救いへの招きが完了する日、すなわち、主イエスキリストの再臨の日までは、諸言語・諸民族・諸文化・諸政府が解消されることが絶対にあり得ないように、諸宗教(ユダヤ教を含む)が解消されることは、絶対にあり得ない。人類を保護する「世界管理者」という意味で、諸宗教は諸国家と共に「キリストのしもべ」である。


宗教文化多元主義とは?

山谷が奉じる「宗教文化多元主義」とは、救済史によって根本を規定された宗教文化多元主義です。

すなわち、アダムの堕罪後の時、洪水後の時、そして、主イエスキリストの初臨と再臨との間に挟まれた「中間の時」にあっては、諸言語、諸民族、諸宗教、諸文化、諸政府が多種多様であって、何人もそれらを一元的に完全統合することは出来ない、とする世界観的立場です。

これは、時間的制約のない宗教文化多元主義とは異なり、主イエスキリストの再臨、つまり、歴史の終焉、時の終わりの彼方においては、諸言語、諸民族、諸宗教、諸文化、諸政府は主イエスキリストにより一元的に完全統合される、とする世界観的立場です。


聖書根本主義とは?

聖書を「真理の命題集」として取り扱うような、正典66巻への態度です。


聖書根本主義に基づく宗教文化多元主義とは?

これを言い換えれば「主イエスキリストの王権的頭首権的世界支配」ということになります。

この場合の「世界」とは、主イエスキリストの初臨と再臨の間に挟まれた「中間の時」における世界です。

また、「支配」とは、主イエスキリストの王権に従属する「位・主権・支配・権威」を世界管理者に委任して行われる代理的支配と、主イエスキリストの頭首権に従属する「キリストのからだ」を秘義管理者に委任して行われる代理的支配と、二種類あります。

「位・主権・支配・権威」を世界管理者に委任して行われる代理的支配の中には、「権力者」(エクスーシア)としての国家権力と、「制度」(クティシス)としての統治機構とが含まれています。


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